とうとう2020年も終わる。
2020年の海んちょの営業も、昨晩でおしまい。
目の前には小さな川が流れ、まわりは住宅。ファミリーレストランやコンビニ、ドラッグストアーが点在する街はずれのこの店で、今年もどのくらいの時間を過ごしたのだろう。
彩の国さいたまの見沼田んぼのど真ん中で育った女将は、それはそれは煌びやかな都会の街にあこがれていた。
高校は県庁所在地のすこしだけ栄えている街の学校を選んだ。高校卒業の進学先も絶対に都会の煌びやかな街中にある大学と決めていた。
第1希望も第2希望も第3希望も第4希望も、すべてだめだったけど、山手線の内側の学校!という希望だけはなんとか通って2年間通った。
学生時代は、毎夜毎夜都会の煌びやかな街へくりだしては友人と楽しく過ごし、都会の異国情緒あふれる煌びやかな街のフルーツパーラーでアルバイトをした。
内定が決まると、すぐに都会の煌びやかな街に下宿した。卒業後も、都心の煌びやかな街の大手有名企業で働き、夜はまた煌びやかな街へ同僚と繰り出しては楽しく過ごしていた。
都心の煌びやかな街のでかーいオフィスビルの外資企業に転職してからも、そんな煌びやかな生活は、続いていた。
ずっとずっと、この煌びやかな生活が続いていくものと信じていた。
だから、日吉に嫁に来たときは、一瞬立ちすくんでしまった。なにせ、日吉駅がまだ木造だった頃の話だから。
慶應大学の外プールは、綱島街道から丸見えで、日吉駅にはデパートの一つもなかった。
まるで、女将が生まれ育った七里の駅と、全然変わらない。ため息が出たのを覚えている。
が、日中は仕事で今まで通り煌びやかな都会の街へでていくし、週末も同僚たちと都会の煌びやかな街ですごしていたから、あまり気ならなかった。
ところが、なぜか、日吉で飲食店を開業することになった。
軽ーい気持ちで女将業を引き受けた。
煌びやかな街でのOL時代とは大違い。
のどかな日吉の六丁目で、慣れない飲食業に専念する日々。OL時代と違って、決まった金額の給料が振り込まれてくるわけではない。
浮き沈みの大きい飲食業に、正直戸惑い、赤字を出した時の補填として、平日は英語講師として働き、その給与を当てたりもした。
お嬢が生まれてからは、お嬢には不憫な思いをさせたくないと、講師業にも力を入れ、夜と週末の飲食業には、もっと力を入れた。
お嬢と過ごす時間は減り、お嬢はいつも一人ぼっちの夜を過ごしていた。
煌びやかな街で働き続ける元同僚たち。
自分が落ちていく気がして、飲食業であることを恥じていくようになった。
機会があればいいタイミングで引退して、飲食業に携わっていたことは、なかったことにしようとまで思っていた。
そんな矢先に、お嬢が大病し医療の力だけでは体も心も整わず、食の力が必要であると確信した。栄養大学で本格的に食生活指導を学んだ。
食は医療と同じように生きていくために必要であると確信して数年後。
世の中は一変した。コロナ禍の今、飲食業界は、大打撃を受け、老舗の店や中堅レストランは、次々と閉業に追い込まれている。
ありがたいことに、海んちょは、地域の方々に支えられて今も今までと同じように営業をつつけさせてもらっている。
お客様を始め、地域の方々に感謝してもし足りない。
そしてそのお客様が、口々のおっしゃってくれるのは、
外食ができないと、心も体もおかしくなってしまいそう・・と。
食というものは、医療と同じように人の心と体を元気にするんだということを、自分の大病とお嬢の大病を経験して、痛感していた。
飲食業に携わる私たちのこれからは、たんに美味しいものを提供するだけでなく、地域の方々の心と体を健康にする責務があると思っている。
明日の活力になるような飲食店を目指そう!!と、思えるようになったのは、お客様のおかげ。そして、このコロナ禍で繋がった同業者の方々や、地域の個人事業主の方々のおかげでもある。
煌びやかでない街で、煌びやかでない飲食業を生業としている自分を、だんだんと好きになりつつある。
なぜならば、飲食業は人の命と人生を元気にする職業だから。食は命を人生を支えている!だから、とっても大切なんだ!!
だから、自分の選んだ職業を誇りに思える日が27年後にきたんだよ!!
と、27年前の自分に言ってあげることにした。
2021年、もっともっと食に携わる仕事に精進しようと思う。
2020年12月31日
水辺のホテルの一室にて。